真壁 
 どうもありがとうございました。今日は建築なりデザインに関わっている方々が多くご来場だと思うので、恐らくこういうものに対して関心が多大におありだろうと思います。また北條さんに個別に相談に乗っていただくといいかなと思います。


 シンロイヒさんはそういう特にサイン回りをなさっているわけですけれども、私たちはやはり一つの環境なり空間なり、あるいは建築なりのマテリアルとしてこういうものを取り上げていきたいと思っています。伊藤さん、そこら辺はどんなふうに蓄光というものを考えておられますか。


 以前に伊藤さんは、蓄光は体験されていたんですか。


伊藤 
 そうですね。私はもう村角さんと違って大分長い間照明の世界におりまして、今から20年ぐらい前ですか、博覧会でシンロイヒさんの商品を使わせていただいたんです。そのときもいろいろご協力いただいたんですが、そのときは非常に神秘的な光で本当にびっくりしましたね。でも今日こうやって見せていただいて、一番びっくりしたのは、そのころから比べてものすごく発光時間が長くなったということです。


 私はそのときの20年前のことしか頭になかったものですから、こんなに長く強く光るとは全然認識できなかったですね。これだったら結構いろいろなことに、これから照明に関して、デザインに関しても使っていけるのではないかなとちょっと期待しています。


 それとトラフさんが今回こういうご提案をされて、いろいろお伺いしたいんですけれども、建築家の方々はいろいろな考え方があると思うんですが、こういう暗い世界というか、暗い空間に対して建築家の方々というのは、例えば住宅の中でどんなふうに暗い空間をコントロールしていこうとされているのか。もちろんお施主さんによってまた考え方も全然違うし、非常に明るい空間で暮らしたいというお客さんもいらっしゃるわけですし、いろいろな考え方があるんですけれども、その暗い空間をどう生かしていくかというような考え方というのは何かお持ちなのかどうか。その辺、もしヒントがあればお伺いしたいんですけれども。


鈴野 
 このときは特にワンシーンをイメージしています。それは帰ってきてドアを開けた瞬間、真っ暗でも本当に楽しいし、電気をつけているのももったいない。僕も赤ちゃんがいまして、帰ってもあまり煌々とはつけられないというような状況になっています。


 それで自然光を昼間浴びているものを、太陽の光を夜にも使えないかなというのが最初にあって、まず蓄光と行く前に、ソーラーパネルで、家の中すべてをソーラーにしなくても、何か一つ夜のためだけに使うあかりが、昼間浴びた、蓄えた太陽の照明でもいいなとか、そういうところから発想が始まりました。


シンポジウム写真

 結果的には、ここのショールームでは自然光は入れられないので、帰った瞬間、暗い瞬間だけは実現できる。それで暗順応というのを利用しまして、もう大分皆さん目が暗闇に慣れてきていると思うんですけれども、入った瞬間は本当に周囲が見えなくて、テーブルの上だけが光っていて、そのシルエットだけがきれいに浮かんでいるという状況を実現したいなと思ったんです。


 でも、蓄光も照明を当てなければ光らないので、暗い状態だけを実現するということはできなかった。そこで村角さんとお話をして、今度はあかりを遊ぶという点から、光の痕跡という形で、最初に考えていた方向のその瞬間的なものだけではなく、実験していくうちにどんどん発見したことがありました。アクリルなんかちょっと置いただけで光がそのまま残って、アクリルを取ってもまだあるように見えるとか。テーブルの上に時計があるんですけれども、そこに照明を当てると一秒一秒の影が痕跡として残っていたりとか。リンゴとろうそくの位置を入れかえたりしても、影だけは残っていて、すごくおもしろい影絵のだまし絵みたいになっていたりとか、やっていてすごく発見がありました。


真壁 
 今の伊藤さんの質問ですけれども、僕がトラフさんの補足をしますと、要するにこれは暗いという認識ではないと思うんですよ。淡いあかりというか、そういうことについてこられる生活者の感性というのかな。それは大分出てきているのではないでしょうか。確かに暗いですよ。暗いけれども、これはあかりなんだという認識が、多分今生まれつつあるんだろうなと思います。つまり、オンとオフしかなかった戦後の、特に経済成長の中での暮らしの中で、このダイニングテーブルが暗くてかなわないという人もいれば、もっとあかりのグラデーションに対する感受性というのが出てきて、これは「はかないあかり」なんだという理解をする人もいる。そういうものを生活の中に取り込むことによって、空間の表情がもっと多彩になるなと。ですから、ある意味では、ダイニングテーブルの上に何か事件を起こせるなというぐらいに私は思っているんです。


 ただ、こういう体験をしていただく一般の生活者の場面というのは、まだまだ少ないと思うのね。だから、どこかレストランでもこういうことを画期的にやると、少しずつ普及するかもしれない。


シンポジウム写真

鈴野 
 この状態で夜をずっと過ごすというような提案でもないんですけれども、帰った瞬間、真壁さんが言われたようにすぐつけてしまうのが惜しくなるような暗闇を楽しむ時間が少しあってもいいかなと思うんです。あかりをつけてしまえばこれは一気に消えてしまうんですね。痕跡は全部なくなってしまうんですけれども、そういう間(ま)があるのはいいなと。オン・オフだけでなく調光とかもちろんあるんですけれども、そういう痕跡を残したような光です。


真壁 
 要は伊藤さんが言われたことはすごく大事で、こういう暗いあかりというか、僕はモデストという言葉が好きなんだけれども、内気なあかりというのかね。これをどういうふうにみんなに知らしめるかというのは、照明家としてもすごく大事ではないかと思うのですがどうでしょうか。ついつい、明るい暗いで話が進んでしまうわけでしょう。


村角 
 そうですね。明るい暗いという話ではなくて、もっと何か忘れてしまっているような感覚なのかもしれないなというふうには思いますよね。たいまつの光だけで生きていた原始時代には、もしかしたら真っ暗闇の中でももっと物が見えていたかもしれないし、月夜のあかりでも今夜はものすごく明るいからとお祭りをしていたかもしれないし、何かその微妙なところというのはもう都心の中では忘れ去られてしまっていますよね。