伊藤
 いろいろお話したいことはあるんですけれどもね。


 一つ、さっき村角さんがおっしゃっていたように、蓄光とか夜光とか蛍光というと、すぐにブラックライトというランプが頭に浮かんでしまう。今まで私もずっとそう思い込んでいました。


 当たり前の話なんですけれども、どの光源からも紫外線というのは若干出ているわけです。ブラックライトというのは、その可視光域をシャットアウトして近紫外線だけを出すという構造になっているのでブラックライトと言っているんですけれども、実はこういう普通の白熱灯でもハロゲンランプでも、みんな紫外線が出ていたわけですね。私は最初、ブラックライトを使うのかなと思って少し心配していたんです。私は昔にブラックライトをさんざん使ったことがあったのですが、ずっとそこにいるとだんだん気分が悪くなってくるんですよ。これはやっぱり人間の心、人が生活する空間で長時間は使えないなと思ったんですね。


シンポジウム写真

 今回ホテル「クラスカ」でいろいろなランプで実験したときに、「何だ、白熱灯でも蓄光できるじゃん」という、これがすごく大きな発見でしたね。北條さん、シンロイヒさんの側からすると当たり前の話なんだけれども、私にはそれは目からうろこでしたね。


 それともう一つ、さっき暗い空間というお話をしたんですけれども、この間打ち合わせをした「クラスカ」のロビーなんかはすごく暗い空間だと思いました。あれくらい暗いロビーというのは、昼間は外光が入っていますから全然問題はないんですけれども、きっと夜はもっと暗いですよね。


 でも、暗過ぎてどうのこうのという基本的な問題は全然ないと僕は思っていて、それよりもやっぱりそこが非常に豊かな空間だったんですね。トラフさんはそういうところでお仕事をされているので、一般の建築の方よりもあかりの感性がきっとデリケートなんじゃないかと思ったんです。やっぱり明るさから暗さまでのグラデーションが非常に大事なわけです。そこに我々は普段気づいていなくて、だからこそ、たそがれ時の太陽がだんだん沈んでいく夕焼けを見たとき非常に感動するんですよね。そういうほのかな光、それをいつも感じて空間を設計されるコンセプトというか、光に対して思いが何かあるのかなというようなことを、実はお伺いしたかったんです。


真壁 
 でも、建築家の立場からそういうあかりのグラデーションの幅があるとしたら、真ん中から下というか、暗いというのをどういうふうに具現するかというのは結構難しいテーマでしょう。


禿 
 そうですね。


真壁
 上のほうは幾らでもできるよね。照度と輝度を上げていくということはね。真ん中から下というのは、暗過ぎるとか危ないとかという話になるよね。そこで得られるものもすごくあるということをどこまで実際に説得できるかですね。暗さを意識させる明るさというのかな。それはこれから開発していく必要があると思うんですね。


禿 
 照明もリノベーションのやり方に少し似ているなと思っています。リノベーションでは全部を悪くとらえずに、普通はあまりよくないなといったものでもそれを隠す方向ではなく、おもしろみ、その見方を提案するようなことを考えていきます。


 照明でもやはり暗闇イコール悪いというのが少しあると思うんですけれども、例えば、こういうテーブルでも作業する場所だけが明るくて周囲はすごい暗闇でも、対比によって、深みが増してくるような闇を楽しむことができ、光が当たっているところのありがたみというか、暖かさを感じることができますよね。


真壁
 今日は2008年2月に第2回エキシビションをなさる井上搖子さんがお見えになっていますが、どうですか。今日ごらんになって、この蓄光なる闇の豊かさというのは。


井上
 まず、第1回目にこんなきれいなのをしていただいたら困ったなと思いました。この真ん中のテーブルは一番光っていますが、私はもう、食事もこれだけの光で十分じゃないかと思うくらいきれいだと思います。ちょっと緑色っぽいのはこれからもっと開発していただいて、お食事がおいしく見えるような色を持っていくと、本当にそういうことが可能かなと思いました。


 それで闇のお話が出ていましたけれども、やっぱり闇がないと光とわからないようなところがあって、認識できないと思います。日本やアジアの光の状態というのは、すごく明るくし過ぎて、不必要なところにもあかりが当たってしまっている状態で、必要なところだけあかりがあれば十分に暮らしていけるんじゃないかと思っています。


 先日、私と組んでくださる角館さんとお話していたら、彼が言うのには、安全のことを考えるあまり道路に光があふれ過ぎて、明るいとかえってどこかが暗くなるわけで、本当は明るくなっていないとみんなが怖いと思うようなところが暗くなってしまっている状態もあるんだということでした。そういうようなお話を伺って、なるほどと思ったんですけれども、その辺の光の当て方だとかがこれからいろいろ変わっていくべきなんじゃないかなと思いました。


真壁
 どうもありがとう。再三、さっきから言われているんだけれども、要するに「くらしとあかり」を考えていく際に、こういう暗いあかりというものから考え出すことが、恐らくこれからのエキシビションの成果に結びついていくかなという思いはありますね。


 この暗さというものに対する想像力を持つと、「くらしとあかり」というものももう少し楽に考えられるかなと思いますね。やっぱり調光器があったとしても、オンとオフだけでは暮らしが窮屈というか、立ち行かないんじゃないかな。


 それから、エネルギーの問題も含めてですけどね。要するに、ふと家の場面を思いつくと、一つの照明でもうあらゆるところを全部照らしてしまっているわけでしょう。壁と床の幅木のところもね。そんなところに本当に光が要るのかなみたいな、そういうことがあるわけだけれども、そこは目を暗さになれさせるところからはじめないと、横柄なまま、再生なんてあり得ないということでしょうね。昔はこういう怪しげなバーというのがたくさんあったんですけれども、最近はないのかしら。


伊藤
 何で私に聞くんですか(笑)。


真壁
 いやいや(笑)。ただ、もう少し暗順応の豊かさというのを何とかしたいなということでしょうかね。


 それともう一つ大事なテーマとして、このように建築家と照明家が出会ってやりとりしていくことについて、どんなふうに村角さんは感じられましたか。


シンポジウム写真

村角
 そうですね。今回はともかくびっくりする提案だったというのは先ほども申し上げたと思うんですけれども、あとは、トラフさんが一体何を見てこんなイメージになったのかというのがありました。先ほどからその発想の話というのは伺ってはいるものの、やっぱり作られている作品作品、本当にすべて何かものすごく説得力があったり、何かちょっと違うようなもの、ただならぬものを感じるんですよね。それは一体何なんだろうというのをすごく考えたりしたんですけれども。やっぱり建築家ごとにその個性というのははっきりしていると思うし、そういう中でもトラフさんは一体何を見ているんだろうと今回すごく考えましたね。